禁酒中の過ごし方|麒麟がくる

大河ドラマが日曜夜にあるのは、サザエさん症候群対策なのではないか、というのが私の持論です。大河ドラマで描かれるのは、ちょっとしたミスが文字通り命取りとなる世界。言われたことができない、といった自分に責任があるミスについては言わずもがな、上司にもの申した、小さな嘘がバレた、ついていく上司を間違えた、騙されたことに気づかなかった、といった、全く自分の非ではないことであっても命を取られます。なんて理不尽な世界なのだろうと思うと同時に、それに比べれば、令和のサラリーマンはまだいいじゃないか、と救われるのです。どんなミスをしたって、命を取られるようなことはありません。そう思うと、月曜の朝から会社に行けるのではないかと。

ところが、2024年現在の大河ドラマは戦場のシーンがないため、私は少し物足りなく、何クールか前で見ていなかった『麒麟がくる』を、10日くらいで一気見してしまいました。

このドラマは、毎話必ず戦場のシーンがあります。ボスはみんな世界を平らかにするための致し方ない戦だと言うのですが、悪いことにボスがいっぱいいるから戦は絶えない。そんな中でボスオブボスになるには、やはりこの人はどこか違うと思わせる異常性が必要だった。それがピュアなサイコパスという異常な信長であり、彼のヤバさに気づいていながらも物事を動かすためにそのパワーがどうしても必要で手を結んだ明智光秀が、結局信長を制御不能の化け物にしてしまい、苦しむ信長をこの手で解放してあげる、というお話。だと私は理解しました。

でもこの物語の最後、信長や光秀の心に並々ならない影響を与えた帝が、彼らがいなくなった世の中について、まるで毎年移り変わる季節程度のことのように話しながら双六をしている。
それを見て私は、出世競争に明け暮れるサラリーマンと資本家のような、決して交わることのないねじれの位置にある人間関係を思いました。

光秀が帝の言葉を自分の使命とは思わずに水に流し、いつものように注意深く波に乗っていれば、もっと長生きできたかもしれません。でも、信長が言うように、人間はいずれ必ず死ぬ、それが今かどうかの違いだけだと。それならば、どのような内容か、そのプロセスこそが人生であり、それを見せるのがドラマなのだと、思います。

明智光秀を演じた長谷川博己の長い指が小刻みに震えながら顔を覆う仕草、織田信長を演じた染谷将太のぴょんぴょん飛び跳ねるように歩く少年のような姿と邪悪な睨みのコントラスト、神聖とも言える演技の力にも十分に酔わせていただいた10日間でした。